桂 小金治さん タレント

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2004年10月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時79歳)

ガンコ親父いまだ健在なり

恐いものの定番だった“地震雷火事親父”。
親父だけがひっそり退場し、弱いものいじめの政治家とすぐにキレる子供らが世にはばかっている。
情けないねえ、世も末だね。おっと忘れちゃいけない、この人がいる。
「アフタヌーンショー」や「それは秘密です」で一世を風靡した人気司会者、小金治師匠だ。
ただのガンコ親父じゃないよ。江戸っ子かたぎの熱血人情家だ。酸いも甘いも噛み分けた親父の語りで、日頃の憂さを笑い飛ばそう。

◎怒って泣いて笑って、いつも本音で体当たり

昼下がりの六本木。ちょいと派手目のシャツ姿でひょいひょい歩いていくのは小金治師匠。足取り軽く、顔もつやつや。
司会者の頃よりも一層若返ってお元気そうだ。開口一番、「こんな時代になるのは30年、40年前からわかっていた。老齢化も少子化もすべて国の責任だよ」といつもの小金治節が飛び出した。
「テレビでご意見番をしていたとき、僕は有楽町の東京国際フォーラムという莫大な維持費がかかる建物なんかより、お年寄りのための家を建てボランティアに運営させたらいい。
なんでそうしないんだい、アホかって言ったんだ。もっと年寄りを大切にしなきゃいけないやね」
不況、リストラ、年金問題と暗い話題が続く現在、あきらめムードで口をつぐむ人々が多い中、歯に衣着せずポンポンポンと小気味よく一喝する。
ポンといえば、そう『ポンポン大将』(1960〜64 NHK)というドラマがあった。そこで隅田川の引き船の船長を演じた。懐かしさで思わず頬がゆるむ。
「ああいう単純明快で心豊かになる番組がいまも欲しいねえ」 大正15年生まれ。
落語家を目指し二つ目に昇進したものの、才能を見込まれて映画界入りした。以来映画にテレビにと活躍し、『アフタヌーンショー』の司会で“怒りの小金治”、『それは秘密です』では“泣きの小金治”として幅広い支持を受けた。現在は講演活動を中心に日本全国を精力的に駆け回っている。

◎大切なことはみな親父が教えてくれた

家は東京・杉並で魚屋を営んでいた。
「僕の父はおもちゃを買ってくれない人で、欲しいものは自分で作れ、作れないものはあきらめろと。
ところがハーモニカがどうしてもあきらめきれずに、『父ちゃんハーモニカ買ってよ』とねだったら、親父は神棚のお榊の葉っぱを取って口に当て、僕の目の前で“ふるさと”のメロディーを吹いたんだ。真似して練習したが3日で止めてしまった。
すると親父はこう言った。『一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。
そこから一歩抜きん出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲くんだよ』と。
大人になって継続は力なりって言葉を知ったとき、父ちゃんは僕が10歳のときにもうこの言葉を教えてくれたんだって感激したね」 ようやく草笛が吹けるようになると、今度は「何かひとつのことができるようになったときは自分の手柄と思うな、他人のおかげと思いなさい」と諭された。
しかし次の朝、枕元には新聞紙で包んだハーモニカが置いてあった。
母にただすと、「もう3日前に買ってあったよ。父ちゃんたら、あの子はきっと吹けるようになるって言ってね」 。
「この話を僕は講演先の学校の生徒の前でするの。するとちゃんとわかるんだよ、子供たちは」と、子供好きの師匠はうれしそうに満面の笑みを浮かべる。そして近くの空き地に行ってカシの葉をちぎると、“上を向いて歩こう”のメロディーを草笛で朗々と吹き鳴らしてくれたのだった。

◎信条は明るく楽しく元気よく

若い頃から体を鍛えるのが好きだった。というのも、これまた父親の「この世の中に敵はいっぱいいるが、一番の敵は自分だよ。自分で目標を作って挑戦してやりぬけ」という教えがあったからで、子供が2人生れたのをきっかけに朝のマラソンを始めた。
「それで『アフタヌーンショー』の司会者になった頃、目黒の自宅から当時のテレビ朝日までの6キロを、片道30分と時間を決めて1日も休まず8年間駆け通したんだ。
今も近くの公園に行き最低50分歩いて帰るのを続けて、長生きするために備えている。
うん、散歩はいいよ。血の巡りがよくなって体が活性化するからね。
こんなことするのも、将来国が守ってくれるあてがないからだけどサ」と、最後のチクリも忘れない。
小金治師匠はゴルフも好きで、お年寄りの会の講演では自作のゴルフ漫談で笑わせる。
「笑いは人間の心の支えだからね。笑う人は明るい。明るい人は長生きする。
僕の信条は、明るく楽しく元気よく、他人にやさしく自分に厳しく。だから他人に頼らずどこへでもひとりで行くよ。そして1日1日を大切に生きる。常にきょうが初めてという気持ちでね。で、講演の最後にこう言うんだ。
僕の希望は90歳まで講演をやって、95歳までゴルフをやって、後は余生を楽しみながら105歳まで生きますってね。わはは」
平成のガンコ親父はこう語り、腹の底から朗らかに笑うのだった。