江上 栄子さん 江上料理学院院長・料理研究家

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2003年11月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時67歳)

みんなで囲む食卓こそが最高の美味

見晴らしのよい教室の一角に、胡蝶蘭やブーゲンビリアが咲き誇る緑のオアシスがある。
毎日愛情を注がれて育った花たちは、都会の中で清浄な酸素を放出しながら、訪れた人々の目を癒し心に活力を与えている。
満面の笑みとともに現われた江上さんは、まさに花の化身のように感じられた。
そして日本の豊かな家庭料理と食文化の大切さを伝え続ける学院の精神が、この美しい花の中に凝縮されていることを深く納得したのだった。

◎家庭の食卓が人間を育てる

「お料理の先生」といえば、江上トミさんをイメージする人も多いだろう。
その先代トミさんの“ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から”との考えを受け継いだ栄子さんは、新しい時代にふさわしい食文化のオピニオンリーダーとしても活躍中である。
70年余の歴史を持つ学院が家庭料理を専門に教えてきた意味について、「お料理はただ空腹を満たすだけのものではありません。人が集まって和気あいあいと食事をすることによって、知識も深まり話題も弾んで食欲も出ます。『おいしかったぁ』と思うことで満足感が残ります。『あなたが好きなこのお野菜、あなたのお顔を思い浮かべて作ったのですからたくさん召し上がってね』などの“心の配慮”によって食べ物も精神的な癒しや思いやりが加わってきます。食べることの力って総合的で大切な面を持っているんですよね」と、微笑みながら語る。
反面、子どもたちに増えてきた“個食(孤食)”の実態には顔が曇る。
統計によると、大人と一緒に食べる気持ちを「裸身をさらしているようで嫌」と子どもは表現しているそうだ。
「これでは将来、国際舞台で会食しながら討論なんてできない大人になってしまいます。大勢で食べるのは、自分の嫌いなものでも大好きな人がいるんだと、“他を認知する”ことでもあるのです。だから大人は遠慮しないで教えなきゃだめです。
それから男性方も『ああ、うちのご飯はやっぱりおいしい』って、褒めることもどんどんしていただきたいですね」。

◎おじいちゃんの料理は家族の絆

学院ではすでに20年前から薬膳料理を取り上げ、また『男の料理教室』を始めて21年になる。
意外なことに料理に対して意欲的で長続きするのは男性の方で、平均在籍期間は女性が3、4年なのに、男性の場合は5年から15年という人もザラだという。
「男性の生徒さんが習う理由は、少し前までは奥様がご病気とか、単身赴任などマイナーなものでした。でも最近は健康とか、家庭内で人気が上がるとかで、お料理楽しい、ルンルン!といった感じなんですね(笑)」。
そこで、おじいさまによる“男の料理”エピソードをふたつ。
〈その1〉お正月料理を一生懸命作っていたおじいさまに、江上さんが「お好きなんですか?」と尋ねたところ、「わしが正月料理をすると嫁たちが寄ってきますんでね」との返事が。
お正月に皆で集まるのはお嫁さんたちにとってはプレッシャーでもあるが、台所へおじいさまが登場することによって、皆が楽しく食事をともにできるようになったという。「だから、おじいさまの料理を決して軽んじてはいけませんね。大事な大事な家族の支柱になるんですから」。
〈その2〉料理コンクールに出場した80歳のおじいさまの場合は、「これはね、孫と仲良くなったきっかけのフライパン料理なんですよ」と。
口をきいてくれなかった孫に、慣れない手つきでおやつ代わりに料理をし続けたところ、料理を通して話が通じるようになったのだ。
「お料理を楽しむのは、新しい時代にとても必要なことなんですね」。

◎“素食”は世界中のお母さんの味

世界60カ国の家庭料理を味わってきた江上さんは、“素食”の良さを強調する。素食とは素朴な料理のこと。
「どの国のお母さんも片手で鍋をかき回しながら片手では刻みものといいたいくらい忙しく、素材を活かしながら簡単かつおいしい手料理を作ってきました。忙しい現代でも工夫すれば大丈夫。つまり、どのお料理も“途中で分けて作る”ことを考えればいいんです」。
“途中で分ける”とは、その日に買ってその日に全部調理してしまうのではなく、魚や肉でもその日に塩をして、翌日か翌々日にそれを素焼きやバター焼き、味噌焼きなどさまざまなパターンに工夫して調理すること。
煮込み料理も夜のうちにコトコト煮て、味噌味やトマトソース、粕汁にと応用するのである。
「ひとつの行程をふたつに分けて、あとは時間にさせる、火にさせる。それを賢い女性はもっと考えるべきですね。そしてこうした料理のコツをきちんと教えられるのが、お年寄りなのです」。
江上さんは結婚する時に、義母であるトミさんから『自分の好きなものは作るな』『家庭の中にできるだけ多く出入りがあるようにしなさい』とふたつのことをいわれたそうだ。
多様な食材と調理法を学ぶことを示唆するこの言葉をしっかり受け止めながら、江上さんはかけがえのない家族の価値や意味について、今日もにこやかに次代に伝え続けている。
「どんどんおかわりしてねっていえるものをふたつ作ってくださいね。それはご飯と実だくさんの汁物ですよ」と。