坂井 宏行さん 料理人 『ラ・ロシェル』シェフ

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2001年08月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時59歳)

「負けず魂が生んだ“最強の鉄人”」

“鉄人”と聞けば“料理の…”という言葉が反射的に浮かぶほど、テレビ番組『料理の鉄人』が絶大な人気を集め日本中に一大グルメ・ブーム旋風を巻き起こしたことは、まだ私たちの記憶に新しい。
その中の“フレンチの鉄人”こと坂井宏行さんは最終回での対決で勝利を手にし、“最強の鉄人”“世界最強のシェフ”の称号に輝いた。16歳から料理の世界に飛びこんだ“鉄人・坂井”の、知られざるエピソードを伺ってみた。

◎仕事も楽しみ、人生も楽しむ

東京・渋谷のフランス料理店『ラ・ロシェル』にさっそうと現われた鉄人は、にこやかな笑顔でこれまでの料理人人生とその哲学を語ってくださった。
「今だからこそいえることですが、人生は一度きりなので、仕事だけでなく自分の生活も楽しまなくちゃ、というのが僕の考えなんです。
料理にかかわる人間として常に心豊かに過ごし、特別な“こだわり”もありません。
自分で決めた基準の少し上をキープして、仕事自体も楽しみながらお客さんの評価を受けるのが1番いいと思いますね」。
日本の懐石料理を取り入れた独自の美しい盛り付けで有名な坂井さんは青山や横浜にも店を持ち、料理人兼経営者として、またホテルのイベントやディナー・ショー、公演と全国を忙しく飛びまわる。
「僕はフランス料理ですが、土壌はあくまで日本なので、フランスの味そのままでなく日本人の好みや量をきちんと踏まえて作っていますし、新店を出す時も僕の味を基本に、それぞれのシェフの個性を出してもらうようにしています」。

◎母の言葉で料理人の世界へ

終戦間際に父を失った坂井さんは、貧しいながら鹿児島県の豊かな自然の中で少年時代を過ごし、得意な絵を描きながら新鮮な野菜や魚の味を舌で覚えて育った。
そんな兄弟の生活を和裁で支えていたの母の代わりに夕飯を作って喜ばれたのが、将来の料理人としてのささやかな出発点となった。
母の笑顔と「手に職をつけなさい」という口癖が、今の坂井さんを作ったともいえる。
そして高校を中退までして飛び込んだ、長い料理人人生が幕を開けた。
「当時の料理の世界はまだ水商売に近く、厳しい縦社会で先輩の身の周りの世話から始めましたが、僕は苦痛には思わなかったですね。
けっこう、要領がいいから(笑)。
基本的には先輩に好かれないと仕事ももらえないし、その仕事も盗んで覚えろという時代でした。
現在はまったく逆で、厳しいとすぐに辞めてしまうからどんどん仕事を教えることで逆に感性を伸ばしてやってます」。
19歳で単身オーストラリアへ渡ってホテルで修行をし、自分をアピールすることと技術と実力をつけることの大切さを学んだ後、銀座の『四季』などの料理人を経て、麻布の『ジョン・カナヤ』のシェフになる。
オーナーの金谷さんの勧めで『味吉兆』の懐石料理を習い、一流の器を見る目の訓練を受け、別の視点から料理を眺める必要性も学んだ。
「僕は同世代の料理人とは全く違う世界を見てきたし、フランスで本格的な修行もしていないので、かえってそれが僕独自の料理の原点になったと思いますね」。
また、オーナーというのは体力勝負なので健康には人一倍注意し、どんなに疲れてもスタッフには決して弱みを見せないそうだ。今はゴルフが趣味という。

◎2代目フレンチの鉄人とチャリティー活動

1993年に、伝説の番組『料理の鉄人』が始まった。『ラ・ロシェル』の工藤シェフが初代“フレンチの鉄人”に挑戦したのがきっかけで、坂井さんに2代目鉄人としての出演依頼が来た。
悩んだ末に引き受けたが、料理対決が話題を呼んで高視聴率を取り、6年も続くことになる。
和の道場六三郎さん、中華の陳建一さんら3人の鉄人と挑戦者の真剣勝負に、視聴者も息を呑んでテレビに見入った。時には陰口やグルメ・ジャーナリストの嫌がらせもあったし、扱ったことのない食材も多かった。
「よく聞かれるんですが、本当に1時間で3品〜6品、6皿分を作るんですよ。僕は87回勝負して、時間が短いからその場のひらめきでこなして…。だから料理の再現は不可能ですね」。
1番苦手な食材は生きたタコだったとか。「気持ち悪くてつかめなかったんですよ(笑)」。
だが得意のオマールえびでは安心したため逆に連敗し、最終対決で陳さんに勝った。
こうして“世界最強の鉄人”となった坂井さんだが、その陰ではもう11年間も京都の筋ジストロフィー患者へのチャリティー活動を地道に続けている。
どうかこれからも日本が誇る“世界の鉄人”として、ユニークなフランス料理の世界を構築し続けていただきたい。