星野 一義さん レーシングドライバー、ホシノ・インパル社長

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2001年11月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時54歳)

いつも“日本一”を目指して走る

カー・レースは過酷であると同時に、非常にメンタルな部分も持つスポーツである。
時速300kmを超えるスピードの中で、激しい振動や鋭いエンジン音、カーブで襲いかかる重力に耐えながら秒単位の素早さでクラッチやギアの操作をしなければならない。
そうした生と死が隣り合う厳しい世界で30年以上も闘い続けている星野さんを駆り立てるレースの魅力とは何なのか、そして陰で星野さんを支え続ける奥様の愛情や、星野流人生観をたっぷり語っていただいた。

◎自分の意志を貫いてレーサーに

「女房にもいわれるんですが、レースになると僕は車以外のことは、まったく見えなくなってしまうんです。
その点では家庭もずいぶん犠牲にしてきましたね」と語る星野さんは、年間200日ものホテル暮らしを長年続けてきたという。
タイヤメーカーの依頼で1日150周も走り込みをし、30レースをこなし、テスト開発の為に毎月ルマンに飛ぶというハードな日々。
しかしトップレーサーでありながら税金の関係で手元に残るのはわずかな額で、「一時は本気でコーヒー店を開こうと本まで買って…。でも結局は車しかないとホシノ・インパルを設立しました。だから僕は意外と慎重派なんです。レースでも度胸があったら却ってだめ。一歩一歩慎重に、しかし最後は全力でというのが理想ですね」。
高校を中退してまでカワサキ・二輪ファクトリーチームに入った星野さんは、たちまち全日本モトクロスチャンピオンになった。
「親には挫折と感じられたでしょうが、価値観はそれぞれ違うし、どんなに反対されても当時の僕にはオートバイが恋人でしたから。だから逆に、今のステージパパの存在は信じられないですね」。
実力を認められた星野さんは22歳で日産と契約して、今度は四輪ドライバーとしてデビューする。
「だけど僕はトレーニングがとにかく嫌いでして(笑)。その点では、視力などドライバーとしてベストな身体に生んでくれた両親に感謝しています」。

◎“日本一速い男” の早過ぎたデビュー

熱狂的なファンが多いF1のFはフォーミュラ(Formula・規格)の意味で、車の排気量でF1〜F3に分類され、F1のみにグランプリ名がつく。
日本では1976年に初めて開催され、星野さんもデビュー戦で3位に上がる素晴らしい走りを披露したが、スペアタイヤ不足で無念のリタイアをした。
そしてこの頃から“日本一速い男”と呼ばれるようになったのである。
だが不運にもオイルショックが始まり、日本人F1レーサーの存在もまだ夢物語の時代だった。
「外国ではレーサーは地位が高くVIP待遇ですが、日本はレースと聞いただけで拒否反応。僕らがレースをやって日本車の完璧な耐久性を示したからこそ、車の輸出で裕福になったのに、レースはガソリンの無駄で危険だといわれる。そうした社会的な理解のなさに憤然とせざるを得ませんね。日本は規則規則で窮屈です。河川敷などを開放しルールに沿って自由に走らせたら、若者の暴走行為も減ると思いますよ」

◎勝負への情熱とチャレンジ精神を忘れずに

だがそんな天才ドライバーも周囲の期待のプレッシャーで、何度も悩んだことがあった。
「勝てない、逃げ出したい。でも僕を支えているブレーンたちのことを思い、頑張らねばとフッと気づきまして。女房にも時には辛く当たったけど、苦しい時期もよくついて来てくれたと感謝しています」。
星野さんの好物は干物やきんぴら、おからなどの奥様の家庭料理だそうだ。
優しく芯の強い奥様が陰から支えていたからこそ、危険な仕事にも心おきなくチャレンジできたのではないだろうか。
「1週4km〜6kmのコースで1、2秒の差しか出ない程シビアなレースをやっているので、常にチャレンジ精神がなければ負けますし、前の車を抜くのは、まさに経験と気迫ですね」。
大きな事故にも何度も遭遇した。
「雨の日にセカンドポジションからトップに行こうとして突然目の前の映像が途切れ、気づいたら病院の天井が視界に入ったことも。もちろん実際は怖いのだけど、インタビューの時はなぜか、『怖いなんてとんでもない』という、本心じゃない別の星野がしゃしゃり出てくる。自分でもバカだなぁと思うんですが(笑)」。
これまで印象に残っているレースは、デイトナ24時間での優勝(1992年)、ルマン24時間の3位入賞(98年)、フォーミュラーシリーズでの数々の優勝。
今後の目標は自分のレーシングチームで、やはり“日本一”を目指すことだそうだ。
「僕がやれば必ず成功します。なにしろ最強のスタッフを集める自信がありますからね」。
そう語る“日本一速い男”の顔は、新たな夢に向かって精悍に輝いて見えた。