村田 英雄さん 歌手

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2001年01月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時71歳)

「生命ある限り、歌いたい」

「生ある限りはやるだけのことをやらなくちゃ。
たとえ第一線から退いても、私にはこの声がある。
足なんか無くてもこの声がある以上は頑張っていきたいなあ。
今は、本当に歌を歌うことが生きる喜びなんですよ」という村田英雄さん。
糖尿病と闘うこと28年。ついに病に両足を奪われるという地獄も見た。
だがそれでも、いつも前だけを見つめるその生き方は、見ていてほんとにすがすがしい。

◎『王将』は人生そのもの

♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え 明日は東京に出て行くからはなにがなんでも勝たねばならぬ♪・・・誰もが知っている大ヒット曲『王将』のフレーズは、まるで村田英雄さんの人生そのものだ。
4歳で初舞台を踏み、7歳でたった独り故郷を後に、浪曲師・酒井雲の所へ内弟子として住み込む。
つらい修業の末、酒井雲坊を襲名。
人気を博すが、「このままではしょせん田舎のお山の大将で終わってしまう」と悩んだ村田さんは、「成算があったわけじゃない。
結果など知ったことじゃない。
とにかく東京で勝負しよう」と上京。
“たくあんの匂いがしみつくような”安下宿で一からの出直し。
さらに亡き大作曲家・古賀政男氏との出会いをきっかけとした浪曲から歌謡曲への転身、『無法松の一生』でデビューしたものの3年もの間売れなかった焦燥の日々・・・とさまざまな苦労を経て、やっと手にしたのが『王将』の大ヒットだった。
それからの遊びっぷりも、ひと昔まえの芸人らしく豪快というか、メチャクチャ破天荒だった。
飲む・打つ・買うは当たり前、宵越しの金は持たない、豪放磊落を地でゆく若き頃のエピソードには事欠かない。
「男の器量は貯め込んだお金や、家の大きさじゃない。
何を成し遂げられるか、それがすべてでしょう」。
当時、東映からもらっていた破格の映画出演料も、撮影が終わるまでにはきれいに使い果たした。
東京へ帰る電車賃さえ無かったこともあるという。
バクチも麻雀・競艇・競馬・競輪・ポーカーと、ヒト桁違うんじゃないかというような大金をかけてやりまくった。
酒もとにかく飲んだ。「朝から晩までそれこそのべつまくなし。
いくら飲んでも酔わないもんだからそのまま平然と舞台をこなし、終わったらまた一杯。夜中に目が覚めるとまた一杯。
もうメチャクチャだったね」。

◎牙をむいた糖尿病

だが、やはりそのツケは回ってきた。
43歳の時、大阪の梅田コマでの公演中にお客さんの顔が二重、三重にダブって見えだした。
無理やり病院に連れて行かれ検査を受けると、検査紙は真っ黒に。
糖尿病が牙をむいた瞬間だった。
平成7年には心筋梗塞で倒れ、糖尿病の合併症でもある白内障の手術、さらに心臓のバイパス手術と続いた。
そのうちに右足にえそを起こし膝から下の切断を余儀なくされる。
「それでも私には歌があった。歌を歌って皆さんを感動させるという大切な仕事があった。だから乗り越えられたんでしょう」。
義足を付けてのつらいリハビリを重ね、再出発を果たした矢先、今度はついに左足までも糖尿病に奪われる。
「本当に怖い病気です。それをひとりでも多くの人に知ってほしいんだ。この村田のようにはなるなとね」。

◎この人がいてくれるから

今年で舞台生活70周年を迎え今はリハビリの傍ら、年に10回〜30回は車いすで糖尿病の恐ろしさについて全国を講演して回る。
「酒の怖さ、病気の怖さ、私を見てもらえばわかると思う。今じゃ若い人まで糖尿病になって、授業の合間にインシュリンを打ってるっていうじゃないですか。本当に身体を大事にしてほしい。私のまねをしてほしくないんだ」。
ここまでつらいことが続くと、人間捨てばちになりそうなものだが「私にはコレがいるから・・・」と傍らの奥様を見つめた。
20年前に出逢った時「育ててくれた母にそっくりで驚いた」という須真子さんだ。
前の奥様が亡くなってからはずっと一緒に暮らし、昨年の6月には結婚式も挙げた。
「人は独りでは生きていけません。彼女がささえてくれるからこうして元気に仕事ができるんです。世話をかけて悪いなあと思うし、大変だろうと思うけど、私にはもうこの人しかいないから・・・」。
『王将』の坂田三吉のそばに小春がいたように、いま村田さんの横には須真子さんが静かに微笑んでいる。