高石 智也さん 歌手

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1994年04月-月刊:介護ジャーナル掲載より

喜び合うことが、生きている喜びフォークはどう歌うかではなく、どう生きるかである フォーク歌手 高石ともやさん(52歳)

「受験生ブルース」などのヒット曲で、1960年代のフォークブームの中心にいた高石ともや。
以来、四半世紀を越えて今なお、一貫してフォークシンガーとして行き続け、昨年11月には大月CDブック「さあ陽気にゆこうフォーク・ソング年代記」を出した。
「フォークはどう歌うかではなく、どう生きるかである。ごまかさずに生きていたらいい歌が歌える。
それがフォークソングである」という高石ともやさんが「どう生きたか」「どう生きるか」を、時間をかけて語ってくれた。

フォーク歌手でマラソンランナー1970年、フォークソングがニューミュージックという商業ベースの音楽に変わって行ったとき、歌をやめるつもりでアメリカへ渡った。
が、元祖、フォークシンガーたちと触れ合うなかで、再び言葉で世の中のことを訴えるフォークソングで生きる決意をして帰国。
その活動の拠点に京都を選び、’73年から13年間、毎年7月に、祇園祭宵々山コンサートを円山音楽堂で開いて、日本のフォークの灯をともし続けた。
「世の中と合わなくてもいい、ものづくりとしていいものは認めるという京都が好きなんですよ。
心の反映するような音楽だったら、どこへ行っても、やりとりできる。
僕は仲良くなれる手段として音楽を、歌を使うんです。
本気でないと、自分で捨ててないと歌えないんですよ。
どれくらい裸になれるかですよ」商売の音楽がはびこる中で、フォーク、はあくまで文化であり、異なる存在だということだ。
フォーク歌手の一方で、マラソンランナーとしての高石ともやも語らなければならない。
今や、大勢の日本人が参加するハワイ・ホノルルマラソン。
’77年、第4回大会に、日本人として初参加したのは、彼であり、彼にとっても初マラソンであった。
「歌は世につれ…と、流れに乗ってゆけばいいのですが、僕は、その反対側に向かわなければならない。逆流する力を持つために、マラソンでもしないと、と思ったんです。’70年に30歳でアメリカへ渡ったときから走り始めました。」彼の地で、健康に生きようというフィットネスの考えが生まれたころだった。
以後、トライアスロンでも数々の賞を獲得。近ごろでは、’89年のオーストラリア1,011kmマラソンやアメリカ横断フットレースを完走、ウルトラマラソンに情熱を燃やしている。
難聴ゆえ、得られた独自の音楽世界素晴らしい歌の贈り物を我々に与えてくれた高石ともやさんは、音楽家にとって、決定的なハンディキャップともなりそうな難聴である。
右耳がほとんど聴こえない。
「バックのバンドと合わせようとしても、合わないんですよ。聴こえないから。
だから自分で伴奏しなければ仕方ない。
ギター1本これしかない。太鼓も入れられないから、言葉をシャープにするしかない。
言葉を頼りに、あとはいい声が必要。
たまたま、神様が魅力的な声をくれたので、あとは手。演奏する訓練をすればいいのですから。
今だから笑って言えるんですが、これしかないから、アイデンティティーが簡単に探せて、幸せだったなあと、思っています。」難聴にコンプレックスを感じていた頃もあった。
補聴器を着けて、初めてステレオで音楽を聴いて、驚いた。
それで一時、補聴器に凝り、いろいろと試した。が、やめた。
「ウソだから。」それでも不便は不便である。
声を落しての普通の歓談ができないので、疲れるという。
ゆっくりやろうというのが“知恵”京都を音楽活動の場とし、生活は、名田庄村(ナターシャ村)で田舎暮らしを実践した。
高度成長一直線の日本に背を向けた暮らしぶり。
そうさせたひとつの理由は、脳性マヒで左足が不自由な長女の存在だった。
「グループの中に、足の悪い人がいれば、それに合わせなければいけないんですよ。
娘とどう向き合うか、息子ともども、命のことを考えながら生きれる人間にどう育てるか。
その方がよほどかっこいい仕事だと思ったんです。
十の仕事があれば、八つ捨ててもいい。
子どもたちと一緒にいる時間を多くしようと考えたんです。
すべて、ゆっくりやろうというのが我々の知恵です」
自ら生きる喜びを知ってからの介護バブルがはじけた今、物の時代から急に心の時代という世の風潮。
が、高石は、20年も前からそう生きてきた。
以後は、その高石が放つ、これからの老麗社会への警句。
「息子に言ってるんですよ。かつての“大学をきちんと出て就職して”というのは、人生50年の場合の生き方。
寿命の延びた今、50歳以降もどう生きるかを考えなきゃ。
個人の幸せの限界はもうわかったんだから、“共存”を考えながら、ゆっくりと生きよう。
スピードを落とす勇気があるかどうかだよ、と…。」
「お金を貯めることよりも、ああ、気持ち良かったということが宝物だと思えてきたら、“介護”の気持ちにつながる。
仕事をしてああ疲れた、が生きがいと思っているうちは、介護なんてとんでもない」
「人の世話をするって、その人も喜んでるなあというのが喜びとなって、初めてできることだから、生きてる喜びを知らない人にはできるはずがない」
「死ぬときに、あの人、この人に出会えて、おはようと、あいさつ交わせたことがうれしい!と思える。
そんな、あたりまえのことに少しずつ気づいていくと、お年寄りのことも考えられるようになる」
「僕は、気持ちよく生きることからやっているから、どうやったら、One of them、みんなの中のひとりになれるかをやっているから、いい年寄りになれるだろうなあと思えてるんです。
70歳を過ぎてからも、フォークをやっているでしょうね」